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日本の高級食パン— 行列が消えたあと、食卓に残ったもの

2026年08月28日 読了時間 約7分
高級食パンの図案。角食パンの本体ときめ細かいスライス(嬉兆オリジナル図版)

紙袋を提げた行列が、夕方の商店街の角を曲がった先まで伸びていた。ほんの数年前まで、日本のあちこちで見られた光景だ。並んだ先にあったのは、一本800円を超える食パン。トーストせずそのままちぎって食べる、耳までやわらかく、ほんのり甘い「高級食パン」である。2013年に大阪で生まれたこの一本は、行列と手土産の文化をつくり、全国を席巻し、そして急速に姿を消していった。この記事では、高級食パンブームの始まりから拡大、淘汰までを倒産データとともにたどり、騒ぎが去ったあとに日本の食卓へ静かに残ったものを見つめる。

ブームの始まり——大阪生まれの「生」食パン

起点は2013年10月、大阪・上本町に開店した「乃が美」の総本店だ。2年をかけて開発されたという食パンは、卵を使わず、生クリームやはちみつを練り込んでリッチに仕上げるのが持ち味。焼かずにちぎれば耳までしっとりやわらかく、ミルクの甘い香りがふわりと立つ。同店はこれを「生」食パンと名づけた。スライスしない二斤の一本売りに、贈答を意識した上品な袋。「手土産に食パンを持っていく」という新しい習慣は、ここから広がっていった。

くしくも同じ2013年には、セブン-イレブンがワンランク上の価格帯の「金の食パン」を発売してヒットさせている。長いデフレの出口で、いつもの食パンに少し余分に払う感覚は、すでに世の中に芽生えつつあった。

拡大——奇抜な店名と出店ラッシュ

乃が美はパン工場を併設した直営店と販売店を組み合わせる方式で店舗網を広げ、創業から6年8ヶ月、173店舗で47都道府県すべてへの出店を達成する。パンの店としては異例の速度だった。2018年ごろには「銀座に志かわ」をはじめ後発ブランドが続々と参入し、ブームは全国区になった。

拡大をさらに加速させたのが「ベーカリープロデュース」という仕組みだ。異業種からの参入者に、レシピから内装、店名までを一式で提供して開業を支援する。仕掛け人として知られるプロデューサーの岸本拓也氏は、「考えた人すごいわ」など思わず二度見する店名の店を次々と手がけ、2020年だけで約130店、多い時期には3日に1店のペースで開業が続いたという。駅前に突然あらわれる真っ白な看板の食パン専門店は、この時期の日本の風景の一部だった。最盛期、高級食パン専門店は全国で1,000店を超えたともいわれる。

転換点——静かに引いていった行列

2022年ごろから潮目が変わる。行列は短くなり、閉店の貼り紙を見かけることが増えた。ごちそうが日常になって特別感が薄れたところへ、小麦・乳製品・光熱費の高騰が重なったのだ。信用調査会社のデータが、淘汰の速度を物語っている。

  • パン製造小売業の倒産は2023年度に37件。前年度の20件から85%増え、年度として過去最多に(東京商工リサーチ調べ)
  • 暦年で見た2024年も31件と、過去20年で2番目の高水準(同)
  • 帝国データバンクは、一本1,000円を超える高級食パンブームの終焉を、パン店の経営難の一因に挙げた
  • 2025年1〜10月の倒産は15件と4年ぶりに減少。淘汰の一巡に加え、米の値上がりでパンが見直されたことが背景とされる(帝国データバンク調べ)

週末のごほうびだった一本は、毎週買うには少し重い値段だった。スーパーやコンビニの棚には「十分においしい」高価格帯の食パンが並ぶようになり、専門店まで足を運ぶ理由は少しずつ薄れていく。白い看板と甘い一本という成功の型は、裏を返せば真似のしやすい型でもあった。似た店が近所に増えるほど一店ごとの行列は短くなり、ブームを広げた仕組みは、そのまま淘汰を早める仕組みに変わっていく。フランチャイズで一気に広がった店舗網は、広がったときと同じ速さで縮んでいった。ただ、その一店一店に、粉と向き合った職人の仕事と、開業に踏み切った人たちの日々があったことは、書き添えておきたい。

残ったもの——湯種とミルクの記憶

では、あの熱狂は何も残さなかったのだろうか。そうではない。まず「生食パン」という言葉と、焼かずにそのまま食べるという楽しみ方が定着した。スーパーの棚では各社のリッチ配合食パンが定番の顔になり、かつて専門店の代名詞だった「そのままおいしい」といううたい文句は、いまや大手製パン各社のパッケージにも普通に並ぶ。数百円で「耳までやわらかい」が手に入る時代になったのだ。切り分けていない一本を紙袋ごと手渡す食パンの手土産も、贈り物の選択肢のひとつとして細く長く生き残っている。

技術も家庭に降りてきた。しっとり・もちもちを生む湯種製法や、仕込み水の一部を牛乳に替えて生クリームやはちみつを加えるリッチ配合は、ホームベーカリーや手ごねレシピの当たり前の選択肢になっている。行列は消えても、日本の食パンの「ふだんの一枚」の水準は確実に一段上がった。それがこのブームの何よりの遺産だ。

出来事
2013年 乃が美が大阪・上本町で創業し「生」食パンが誕生。セブン-イレブン「金の食パン」も同年発売
2018年 「銀座に志かわ」など後発ブランドが続々参入。プロデュース型出店が本格化
2019〜2021年 出店ラッシュの最盛期。専門店は全国1,000店超ともいわれた
2020年 乃が美が創業6年8ヶ月で47都道府県への出店を達成
2022〜2023年 閉店・撤退が加速。2023年度のパン製造小売の倒産は37件で過去最多
2025年 倒産件数は4年ぶりに減少。リッチ食パンは日常の棚に定着

家で焼くリッチ食パンへの応用

あの口どけを台所で再現するなら、鍵は二つある。ひとつは湯種製法の基本で紹介している湯種。粉の一部を熱湯でこねて一晩おくだけで、しっとり感ともちもちが長持ちする。もうひとつは配合で、仕込み水の3〜5割を牛乳に置き換え、砂糖とバターを気持ち多めにするだけでも、ぐっと「生食パン寄り」になる。ふんわり軽くするか、きめ細かくしっとりさせるかは型と焼き方でも変わるので、山食と角食のちがいもあわせてどうぞ。

行列に並んで手に入れた一本を、いまは自分の台所で焼ける。ブームが残していってくれたものを、今夜の一枚でゆっくり味わいたい。

参考情報源

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