昨日焼いたバターロールの生地が、ひとかけらだけラップにくるまれて冷蔵室の隅にある。捨てるつもりだったそれが、明日のパンをはっきり良くします。
老麺(ろうめん、パート・フェルメンテ)とポーリッシュ。どちらも先に発酵させた種を本ごねに足して風味を稼ぐ、発酵種の代表格です。ただ、この二つは出どころも性格もまるで違う。片方は昨日の生地の取り置き、もう片方は前の晩に別立てで仕込む液種です。
この記事では、二つの種が組成のどこで分かれているのか、その差がなぜ風味と手間の差になるのか、そして焼きたいパンからどちらを選べばいいのかを紹介します。
出発点が違う。老麺は取り置き、ポーリッシュは仕込み
老麺法は、事前に発酵熟成させたパン生地を、新しく作る生地の材料の一部として加える製法です。ここでいう生地は、粉も水もイーストも砂糖も塩も油脂も入った、完成した生地。だから老麺はそのまま焼いてもパンとして成立します。中種のように、単体では焼いてもおいしくならない種とは、そこが決定的に違います。
配合はふだんのパン生地そのままで構いません。たとえば強力粉100gに水68g、インスタントドライイースト1g、砂糖8g、塩1g、油10cc。35℃で50分ほど発酵させて、冷蔵庫で一晩以上寝かせる。翌日の本ごねに、対粉10〜30%ほど加えます。基本は20%あたり。
ポーリッシュ法は液種法とも呼ばれます。使う粉の20〜40%を取り分け、そこに粉と同量の水とイーストを混ぜる。粉と水が1対1なので、まとまった生地にはならず、とろりと流れる種になります。イーストは0.2〜2%と幅がありますが、いずれも本ごねより控えめ。そして塩は入れません。
発酵は、室温に2時間ほど置いてから冷蔵で12〜15時間というのが一般的な組み立てです。常温3時間のあと冷蔵6時間以上、というやり方もあります。どちらにせよ24時間以内に使い切るのが理想です。
分かれ道は塩。浸透圧が発酵の速さを決めている
老麺とポーリッシュのいちばん大きな違いは、粉でも水でもなく塩です。
塩には微生物の働きを抑える作用があります。原理は浸透圧で、まわりの塩分濃度が上がるとイーストの細胞から水が引き出され、酵素の働きが鈍り、発酵の速度が落ちる。この浸透圧は砂糖のおよそ12倍と強く、対粉で1%動かすだけでも発酵の進み方が変わります。食事パンなら塩は対粉2%前後、砂糖の多い生地では0.8%ほどが目安です。
塩はもうひとつ、タンパク質分解酵素(プロテアーゼ)の働きを抑えてグルテンを引き締めます。塩を入れ忘れた生地が窯伸びせず、キメも粗くなるのはこのためです。
つまり老麺は、ブレーキを踏んだまま一晩進む種。ポーリッシュは、ブレーキを外したまま一晩進む種。同じ「一晩」でも、中で起きていることの速さがまるで違うわけです。
老麺は熟成の方へ、ポーリッシュは甘みと香りの方へ
この速さの差が、そのまま風味の方向になります。
老麺は、ゆっくり進んだぶん熟成寄りの香りをまといます。酸味と甘みの両方が感じられる、少し奥行きのある風味。だから老麺は生地の主役ではなく、調味料のような使われ方をします。発酵風味料、あるいは製パン改良剤としての役割です。加える量を増やせば熟成した風味が濃くなり、老化も遅くなりやすい。減らせばフレッシュな味わいに寄る。つまみで調整できるのが老麺の面白さです。
ポーリッシュは逆に、酵素が伸び伸び働いた結果を持ってきます。小麦粉に含まれるアミラーゼがデンプンを糖に分解し、それがイーストの餌になって発酵生成物へ変わっていく。焼き上がりは小麦のうまみと甘みが前に出て、窯伸びがよく、クラストは薄く、クラムはしっとりする。歯切れのいいフランスパンやピザ生地でよく使われるのは、この性格ゆえです。
| 項目 | 老麺(パート・フェルメンテ) | ポーリッシュ |
|---|---|---|
| 出どころ | 完成した生地の取り置き | 粉と水から別立てで仕込む |
| 塩 | 入る | 入らない |
| 粉と水 | ふつうの生地と同じかたさ | 1対1のとろりとした液種 |
| 使う量 | 対粉10〜30% | 粉の20〜40%を種に回す |
| 使いどきの合図 | 気泡があり、変な匂いがしない | 種落ち(ふくらんで少し沈む) |
| 風味の方向 | 酸味を含んだ熟成 | 甘みと香り |
手間の性格。ついでの老麺と、狙って作るポーリッシュ
実際に台所で回すとき、効いてくるのは風味より段取りかもしれません。
老麺は「ついで」に生まれます。今日パンを焼くなら、こね上がった生地からひとかけら取り分けて冷蔵室に入れておくだけ。専用の仕込みも計量もいりません。ただし冷蔵での持ちは3日ほどが限界なので、次に焼く予定と相談することにはなります。
ポーリッシュは「狙って」作ります。前の日に別立てで仕込む一手間が要り、液種はベタつくので慣れるまで扱いにくい。使う前には1時間ほど室温に戻してから本ごねに合わせます。そのぶん、焼き上がりの香りは狙ったところに届きます。
この違いは腕前ではなく暮らし方の問題です。パンを焼く頻度が高い人ほど老麺は自然に回りますし、月に一度でも本気のバゲットを焼きたい人にはポーリッシュが向きます。
どちらを使うか、焼きたいパンから逆算する
- 日常の食事パンに、もう一段の厚みがほしい → 老麺を対粉10〜20%
- 昨日の生地が余っている → 迷わず老麺(捨てる前にラップへ)
- フランスパンやピザで、香りと窯伸びを取りにいきたい → ポーリッシュ
- クラストを薄く、クラムをしっとりさせたい → ポーリッシュ
- 熟成した酸味を少し足したい → 老麺を多めに
- 甘い香りを前に出したい → ポーリッシュ
作り方や保存のこまかい手順は老麺法の記事に、ポーリッシュをビガや中種と並べた全体像は発酵種(ポーリッシュ・ビガ・中種)の記事にまとめてあります。この記事はあくまで、二つのあいだで迷ったときの地図として使ってください。
使いどきの見極めは、どちらも鼻と目で
種は時間ではなく状態で判断します。合図は種類ごとに違います。
- 老麺が生きているとき:気泡がしっかり立ち、変な匂いがしない
- 老麺を諦めるとき:きつい匂いがする、気泡が小さく量も少ない
- ポーリッシュの使いどき:ふくらみきった表面が中央からすこし沈む「種落ち」の瞬間
- ポーリッシュの限界:24時間を超えると酸味とアルコール臭が勝ってくる
どちらも、ふたを開けて顔を近づければわかります。良い種は、鼻の奥に甘い匂いが残る。だめな種は、匂いが尖って前に出てくる。数字より先に、鼻が教えてくれます。
ポーリッシュは前の晩に決めた予定です。老麺は、昨日の自分がうっかり残していった贈り物です。どちらが上ということはなくて、その日の台所に合うほうを選べばいい。冷蔵室の隅のひとかけらは、余りものではなく、明日のパンの調味料です。
参考情報源
- パン作りの教科書(老麺法):老麺の定義、中種との違い、調味料的な使われ方と使用量の目安。
- 完全感覚ベイカー:老麺の具体的な配合(塩1gを含む)、35℃50分と一晩冷蔵、対粉10〜30%、生きているかの見分け方。
- cotta(ポーリッシュ法):粉の20〜40%、イースト0.2〜2%、室温2時間と冷蔵12〜15時間、種落ちと1時間の復温。
- こびとのカフェ(note):両製法の比較、老麺の冷蔵は3日が限界、ポーリッシュのベタつきと風味の傾向。
- パン作りの教科書(塩の役割):浸透圧による発酵抑制、砂糖の約12倍という強さ、塩なし生地の窯伸びとキメ。
