砂漠の朝、テントの脇。ドーム形の黒い鉄板の上へ、腕いっぱいに広げた生地がふわりと着地し、みるみる香ばしい斑点が浮かびます。これがヨルダンのシュラーク——遊牧民ベドウィンに受け継がれてきた、紙のように薄いパンです。直径50〜65センチ、厚さはわずか0.5〜2ミリ。光にかざせば向こうが透けるほど薄いのに、しなやかで、料理を包み、すくい、時には皿の代わりまで務めます。
専用の鉄板がなくても大丈夫。家のフライパンや中華鍋を裏返せば、近いものが焼けます。この記事では、シュラークの正体と歴史、腕で生地を回してのばす技、国民食マンサフとの深い関係、そして日本の台所での再現法までを、参考記事を読み解きながら紹介します。
「サージ」の上で焼く、布のような一枚
シュラークの道具立ては、潔いほどシンプルです。
- 材料:基本は小麦粉・水・塩だけ。全粒粉を混ぜるのがヨルダン流で、無発酵が伝統(現代の家庭レシピでは少量のイーストを入れる例も多い)
- 大きさ:直径50〜65センチ。層を持たない一枚もの
- 薄さ:0.5〜2ミリ。光にかざすとほぼ透ける
- 鉄板:「サージ」と呼ばれるドーム形(凸面)の金属鉄板。直径60〜100センチで、伝統的には薪の火で熱する
- 焼き時間:よく熱したサージなら片面30〜60秒ほど。あっという間
名前は土地によって変わります。ヨルダンでは「シュラーク」、パレスチナやレバノンでは「マルクーク」、ほかに「フブズ・ルカーク(薄いパン)」とも。呼び名は違っても、熱い凸面に薄い生地を貼りつけて焼くという骨格は同じです。薄焼きの仲間としては、アルメニアのラヴァシュともよく似た顔立ち。粉と水と塩だけでどこまで行けるか——西アジアの薄焼き文化の、これは砂漠側の答えです。
十世紀の料理書に、もう載っていた
このパンの記録は古く、10世紀にイブン・サイヤール・アル=ワッラークが著した料理書までさかのぼります。そこでは「ルカーク」の名で登場し、「紙のように薄い、無発酵のパン」と説明されていました。千年前の描写が、いまヨルダンの台所で焼かれている一枚と、ほとんどそのまま重なるのです。
シュラークはベドウィンの食卓の日々のパンでした。焼くのは数十秒で、燃料は焚き火で足りる。焼き上がりは折りたたんで袋で保存でき、乾いても水を打てばしなやかさが戻る。移動しながら暮らす人々と、これほど気が合うパンもなかなかありません。いまのヨルダンでは、シュラークはもてなしと気前よさの象徴とされ、祝いの食卓に欠かせない存在。イード(祭り)の前にまとめて焼きだめしておく習慣も記録されています。
腕から腕へ——生地が「布」になるまで
シュラークの見せ場は、のばす工程です。台の上で生地玉を指先で円く広げたら、そこからは手と腕の出番。片腕に生地を掛け、回転をかけながらもう片方の腕へ、また戻して——と往復させるうちに、生地は自分の重みでどんどん広がっていきます。レバントではこの技を「ハル」と呼ぶそうです。ピザ職人の宙回しにも似ていますが、目指す先はずっと薄い。生地ごしに向こうの光が見えるところまでのばします。
丸いクッションに生地を掛けて形を整え、そのままサージへぱたんと裏返す方法も、古くから使われてきました。どちらの場合も、最後は熱い凸面に生地を「着せる」ように広げます。じゅっという音、立ちのぼる粉の香り、ぷくぷくと浮かぶ気泡。ほどなく、焼き色の斑点をまとった一枚が、布のようにふわりと持ち上げられます。
国民食マンサフの、いちばん下の一枚
シュラークを語るなら、マンサフを抜きにはできません。マンサフはヨルダンの国民食。羊や山羊の乳から作る発酵乾燥ヨーグルト「ジャミード」を戻したソースでラム肉をじっくり煮込み、大皿に盛った米の上にのせて、ソースをたっぷり回しかけた料理です。ジャミードは南部の町カラク産が最高級とされます。
その大皿の、いちばん下。米の下に敷かれているのがシュラークです。パンはソースを静かに吸い、米と肉のうまみを受け止める土台になります。食べ方にも作法があり、伝統的には大皿を囲んで立ち、右手だけを使って、指先で米をひと口大に丸めて口へ運びます。結婚式にも祝日にも、そして部族どうしの和解の席にも、マンサフとシュラークは並んで登場してきました。
ちなみにマンサフの起源には諸説あります。旧約聖書の場面と結びつける語りがある一方で、その説には異論もあり、米とジャミードのソースが定着した現在の形は20世紀に整った、とする研究もあります。千年級のパンと、意外と若い国民食。その組み合わせが、いまのヨルダンの食卓です。
朝の食卓では、シュラークはラブネ(水切りヨーグルト)やオリーブ、ザアタルとオリーブ油のお供になります。レバントの朝が気になった人は、レバノンのマナキーシュの記事もどうぞ。
家庭で:フライパンを裏返せば、そこがサージ
サージの代わりは、裏返した中華鍋か大きめのフライパン。参考記事のレシピを、日本の台所向けに整理します。
- 粉:全粒粉200g+中力粉200g(なければ強力粉と薄力粉を半々)。全粒粉半々が、香ばしさと乾きにくさの鍵
- 塩:小さじ1
- 水:ぬるま湯220mlから様子を見て追加。耳たぶよりやわらかい生地に
- 好みで:オリーブ油大さじ1、イースト小さじ1/2(ふんわり寄りが好きなら)
手順はこうです。
- こねる:なめらかに伸びるまで10〜15分、しっかりと。ここで手を抜くと、のばす段で破れます
- 休ませる:ぬれ布巾をかけて1時間(イースト入りなら倍にふくらむまで)
- 分ける:8等分に丸め、さらに30〜45分休ませる
- のばす:打ち粉をした台で麺棒で丸くのばし、仕上げは裏返したボウルに掛けて、縁をそっと引きながら「透ける」まで
- 焼く:裏返したフライパンを中強火で予熱し、生地をふわりと乗せる。気泡が浮いて焼き色の斑点がついたら1〜3分ほど。片面だけで下ろす流儀も、さっと裏面もあぶる流儀もあります
- 包む:焼けたそばから重ねて、布巾でくるむ。これで乾かず、しなやかなまま
一枚目が焼けたら、まず何もつけずにちぎってみてください。粉の香ばしさと、薄いのにもっちりした噛みごたえ。それからオリーブ油とザアタル、フムス、ラブネへ。夕食なら、カレーや煮込みをすくうスプーン代わりに。そぼろや焼き肉と薬味をくるりと巻けば、日本の食卓にもすっと馴染みます。
| 工程 | 目安 | コツ |
|---|---|---|
| 仕込み | 全粒粉200g+中力粉200g・塩小さじ1・ぬるま湯220mlから調整 | 耳たぶよりやわらかく。全粒粉半々が香ばしさと乾きにくさの鍵 |
| こねる | なめらかに伸びるまで10〜15分 | ここで手を抜くと、のばす段で破れる |
| 休ませる | ぬれ布巾をかけて1時間、8等分してさらに30〜45分 | イースト入りなら倍にふくらむまで |
| のばす | 麺棒で丸くのばし、裏返したボウルに掛けて | 縁をそっと引きながら、向こうが透けるまで |
| 焼く | 裏返したフライパンを中強火で予熱し、1〜3分ほど | 気泡が浮いて焼き色の斑点がついたら下ろす |
| 包む | 焼けたそばから重ねて布巾でくるむ | 乾かず、しなやかなまま保てる |
よくある失敗と、その直し方
- のばすと破れる → こね不足か、休ませ不足。参考記事が「こねは15分」と念を押すほど、ここが薄さの土台。生地が縮んで戻るなら10分置いてから再開を
- 移すときに折れる・しわになる → 薄い生地は腕や麺棒に掛けて運ぶと安定します。最初はトルティーヤくらいの大きさで練習すれば十分
- 焼き上がりがパリパリに乾く → 焼きすぎか、裸のまま放置したか。焼けたら即、重ねて布巾へ。翌日は霧吹きで湿らせ、ホイルに包んで温め直せば戻ります
- 厚ぼったいクレープになる → 合格ラインは「向こうが透ける」。台の木目や指の影が見えるまで、もうひと押し
- 焦げ斑が一瞬でつく → 裏返したフライパンは熱が一点に集まりがち。火を少し落とし、生地を乗せる位置をずらしながら
薄さへの挑戦は、二枚目、三枚目と確実にうまくなります。破れた一枚も、ちぎってスープに落とせば、それはそれでごちそうです。
一枚の布が、食卓になる
砂漠では、この薄い一枚が食卓布であり、皿であり、スプーンでした。大皿の下でソースを受け止め、指先で米を包み、朝にはラブネをすくう。パンが「主食」である前に「道具」だった時代の記憶を、シュラークはいまも身にまとっています。週末、フライパンを裏返して火にかけるとき、換気扇の向こうに、ほんの少しだけ砂漠の朝の風が通るかもしれません。
参考情報源
- 196 flavors(Shrak (Markook) – Middle Eastern Flatbread) https://www.196flavors.com/shrak-markook/
- Christopher Kimball’s Milk Street(Jordanian Bedouin Flatbread (Shrak)) https://www.177milkstreet.com/recipes/jordanian-bedouin-flatbread-shrak
- Breadmasters(What Is Markouk Bread? Guide to Traditional Flatbread) https://www.breadmasters.com/what-is-markouk-bread-your-essential-guide-to-this-traditional-flatbread/
- Wikipedia(Saj bread) https://en.wikipedia.org/wiki/Saj_bread
- Wikipedia(Mansaf) https://en.wikipedia.org/wiki/Mansaf
