ニュージーランドの台所の窓辺に、ふたをゆるめた瓶がひとつ。中では、ゆでてつぶしたじゃがいもと粉と砂糖が、ぷくぷくと小さな泡を立てています。これがレウェナブレッドの心臓部——マオリの人々が「バグ(bug)」と呼んで育てる、じゃがいも由来の発酵種です。イーストの袋を開ける代わりに、じゃがいもから酵母を起こしてパンを膨らませる。ほんのり甘くて、かすかに酸っぱい。この記事では、このパンの来歴と、家庭でバグを起こしてレウェナを焼くまでの流れを、現地の記事を読み解きながら紹介します。
名前の意味は「粉」と「発酵種」
マオリ語での正式な呼び名は「パラオア・レウェナ(parāoa rēwena)」。parāoa は英語の flour(粉)、rēwena は leaven(発酵種)がマオリ語の音に写しとられた言葉で、直訳すればそのまま「粉の発酵種」。パンの名前が、そのまま作り方の説明になっています。
このパンが生まれた背景には、ニュージーランドの近代史が畳み込まれています。小麦がこの島に届いたのは1769年、じゃがいもは1772年。マオリの人々はもともとクマラ(さつまいも)を育てていたので、よく似たじゃがいもの栽培はすんなり根づいたといわれます。ヨーロッパから来た小麦と、畑になじんだじゃがいも。そのふたつを結びつけて、イーストのない台所でパンを膨らませる方法を編み出したのがレウェナでした。1862年の刊行物『Ko Aotearoa』には、すでにマオリ語で書かれたレシピが残っているそうです。植民地化という激動の時代に、外から来た材料を自分たちの知恵で編み直した——そう思うと、瓶の中の泡がすこし違って見えてきます。
「バグ」は家族の一員 — 種を継ぐ文化
レウェナの発酵種がバグ(虫)と呼ばれるのは、まるで生き物のように毎日餌をやり、世話をするから。粉と砂糖を定期的に足してやれば何年でも生き続け、親から子へ、そのまた子へと受け継がれていきます。
ファンガヌイという町でレウェナを焼き続けるジョージ・ジャクソンさんは、ひいおばあさんの代から伝わるバグを今も使い、おばあさん直伝の16時間かけた製法を守っています。その一斤は2022年、ユネスコの創造都市ネットワークによる世界のパンを記録するプロジェクト「Breads of the Creative Cities」に選ばれました。「自分が焼かなければ、子どもたちはこのパンを知らないままだった」——彼の言葉に、種を継ぐことの意味が詰まっています。
レウェナはフイ(集まり)やマラエ(集会所)のごちそうの席に欠かせないパンであり、単なる主食を超えた存在です。墓地を訪れたあと、水の代わりにパンを手の上で崩して清めるという儀礼的な使われ方も記録されています。
家庭での「バグ」の起こし方
現地の家庭向けレシピでは、バグはこんなふうに起こします。日本の台所でもそのまま真似できます。
- 1日目:中くらいのじゃがいも1個を皮ごとゆで、つぶす(ゆで汁ごと使う流儀もあります)。粗熱がとれたら薄力粉1カップ、砂糖小さじ2、水を混ぜ、ゆるいペースト状に。清潔な瓶に入れ、ふたはゆるく。
- 2日目以降:毎日、粉1/2〜1カップ・砂糖小さじ2・水3/4カップほどを足して混ぜる。置き場所は日の当たる窓辺やオーブンの上など、あたたかい場所。
- 5日目ごろ:全体にぷつぷつと泡が立ち、甘酸っぱい匂いがしてきたら完成の合図。気温や湿度によって数日〜1週間ほどかかります。
小麦粉と水だけで起こす一般的なサワードウ種と比べると、じゃがいものでんぷんと砂糖のぶん、酵母の餌が豊富。種起こしの基本の考え方はサワードウスターターの育て方と同じなので、あわせて読むと迷いません。
パンにする日
現地レシピの配合は、驚くほどシンプルです(2斤分)。
- バグ2カップ、ぬるま湯2カップ、小麦粉4カップ(強力粉がおすすめ)、砂糖大さじ4を混ぜる
- 10分以上しっかりこねる
- 丸くまとめ、2時間ほど、倍にふくらむまで発酵させる
- 180℃のオーブンで約30分焼く
- 焼き上がったら濡れ布巾に包んでしばらく休ませる(皮がしっとり落ち着きます)
そして忘れてはいけないのが、焼く前に生地をひとかけら取り分けて、瓶に戻すこと。これが次のバグの元になります。あとは2日おきに少しずつ餌をやれば、バグは生き続けます。取り分けたひとかけらが次の一斤になり、それがまた次へ——この循環こそ、レウェナが「受け継がれるパン」と呼ばれるゆえんです。
焼き上がりは目の詰まったどっしりした食感で、じゃがいも由来のほのかな甘みと、サワードウらしい酸味が同居します。焼きたてにバターも良し、翌日はトーストにしてスープに添えるのが現地流です。
よくある失敗と、その直し方
- バグに泡が立たない → たいてい寒さが原因。オーブンの上や日なたなど、あたたかい定位置を決めてあげてください。
- 酸っぱすぎる匂いになった → 餌やりの間隔があきすぎたサイン。粉と砂糖と水を足して1日待つと、匂いが落ち着いてきます。
- パンがふくらまない → 泡が立ち切る前に使ってしまったか、発酵時間が足りないか。バグの完成は日数ではなく「泡と匂い」で見極めて。
- 中が生っぽい → もともと目の詰まったパンなので、焼き上がりの見極めは竹串で。生地がつくようなら10分ずつ追加を。
瓶の中の、小さな家宝
じゃがいもをゆでる。粉と砂糖を混ぜる。あたたかい場所に置いて、毎日ひと混ぜ——やることはそれだけなのに、5日後にはあなたの台所にも、名前をつけたくなるような相棒が生まれます。ニュージーランドの家庭では、そうして生まれたバグが何十年も生き、家族の記憶ごと次の世代へ手渡されてきました。週末、じゃがいもをひとつ多くゆでるところから、はじめてみませんか。うまく育てば、それはいつか、あなたの家の「継がれる種」になるかもしれません。
