夕暮れの店先で、生地がふわりと宙に浮く。
職人は指先だけでそれを受け止め、また放る。数回まわすうちに生地は向こうが透けるほど薄い膜になり、台に戻ると今度はギー(澄ましバター)をたっぷり塗られ、端から折り畳まれていく。これがエジプトのフェティール・メシャルテット。小麦粉と水と塩の生地を何十層にも折り重ねて焼く薄層のパイで、「ファラオのパン」の異名を持つ。
この記事では、神殿の供物に始まると伝えられる歴史から、層が生まれる仕組みと甘塩両様の食べ方、日本の台所で焼くための手順までをまとめる。
神殿の供物から客間へ — フェティールの歴史と文化
起源として広く語られるのは古代エジプト起源説だ。「フェティール・マルトゥート」と呼ばれる平たい焼き菓子が神々への供物として神殿に置かれ、それが原型になったと伝えられる。英語版Wikipediaにも載る有名な話だが、考古学的な裏付けが示されているわけではないので、伝承として味わうのがちょうどいい。ただ、古代エジプトの祭壇にパンや蜂蜜が供えられていたこと自体はよく知られていて、薄い生地に脂を重ねる知恵がナイルのほとりで古くから育った、と想像する余地は十分にある。
時代が下ると、フェティールは宗教行事や結婚式、祝い事に欠かせないパンになった。いまも農村では、客が来るとまずフェティールを焼く。粉と水と、家にある一番いいギー。それを惜しまないことが「ようこそ」の言葉の代わりになる。2009年にオバマ米大統領がエジプトを訪れた際も、もてなしの席に上がったと伝えられる。腕のいい農家の母さんのフェティールが一番うまい、という言い方も現地には残っている。
毎日の食卓を支えるのがエジプトのアエーシ・バラディという日常のパンなら、フェティールはハレの日のパンだ。折り重ねる手間の厚みは、そのまま歓待の厚みでもある。なお、この技が地中海を渡ってヨーロッパの折り込み菓子の遠い祖先になったという説まで語られるが、こちらは話半分に楽しむ類いだろう。
何十層はどう生まれるか — 生地とギーの仕組み
材料は拍子抜けするほど少ない。小麦粉、水、塩。発酵の力で膨らませるパンではなく、層そのもので食感をつくる。
鍵は、手に張りつくほどやわらかい生地と、長い休ませ時間だ。エジプトの家庭では、丸めた生地を温めた溶かしバターに浸したまま休ませる流儀もある。脂をまとってグルテンがゆるんだ生地は、驚くほど伸びる。専門店の職人「ファタトリ」はこれを空中に放り、指先で回しながら広げる。紙のように薄く、差し渡しが半メートルを超えることもあるのに、生地は指先から落ちない。年単位の修業を要する技で、父から子へ受け継がれることが多いという。修業中に広げた生地が頭に落ちてきた、という思い出を語る職人もいる。
透けるほど薄い膜の全面にギーを塗り、折り畳む。折った生地をさらに重ね、円盤に整えて高温で焼く。脂の膜が生地同士を隔て、焼成中に水分が蒸気となって層を押し開く。原理はクロワッサンと同じ折り込み(ラミネーション)だ。仕組みから知りたい人は折り込み生地の基本を先に読むと、フェティールの合理性がよく見えてくる。
食べ方は甘塩両様。焼きたてに蜂蜜、黒蜜を思わせるモラセス(糖蜜)、粉糖、エシュタと呼ばれる濃厚なクリームを添えるのが甘い流儀。塩の流儀なら、ミシュという熟成塩チーズや白チーズ、オリーブ、挽肉やソーセージが相棒になる。蜂蜜と塩辛いチーズを同じひと切れにのせる組み合わせも現地では定番だ。土地ごとの色もあり、アレクサンドリアにはチーズと野菜をのせて焼くピザ風が、保養地ラアス・アルバルには甘い流儀が根づいているという。
要点を一枚にまとめておく。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 主な材料 | 小麦粉・水・塩・ギー(澄ましバター) |
| 層の作り方 | 透けるほど薄く広げた生地にギーを塗り、折り重ねる |
| 甘い食べ方 | 蜂蜜・モラセス・粉糖・エシュタ(クリーム) |
| 塩の食べ方 | 熟成チーズ・オリーブ・挽肉・ソーセージ |
| 食べる場面 | 来客のもてなし・結婚式・祝祭日 |
日本の台所で再現する
空中で回す必要はない。台の上でゆっくり延ばせば、家庭のオーブンでも層は再現できる。ギーは輸入食品店で手に入るほか、無塩バターを弱火で溶かして上澄みだけを使えば代用になる。直径20cmほど1枚分の目安は、強力粉200g、塩小さじ1/4、水130〜140ml、ギー大さじ6。
- 粉と塩に水を少しずつ加え、耳たぶよりやわらかい生地にまとめ、なめらかになるまで10分捏ねる。
- 表面に薄く油を塗り、ラップをかけて室温で1時間休ませる。
- 生地を2つに分け、油を塗った広い台で中心から外へ、指の腹で押し広げる。向こうが透けるまで。小さな破れは気にしない。
- 全面に溶かしたギーを塗り、三つ折りを2回重ねて小さな座布団状にする。もう1つも同じにする。
- 1枚を軽く延ばして土台にし、もう1枚を中央にのせて包み、円く整えて天板へ。表面にもギーを塗る。
- 230℃に予熱したオーブンで12〜15分、縁と底が金色になるまで焼く。現地には290℃近い高温で一気に焼く例もあり、迷ったら高温短時間に寄せる。
- 焼きたてを放射状に切り、蜂蜜か塩気の立ったチーズを添える。
焼いている間、台所にはギーの香ばしい匂いが満ちる。ナイフを入れた瞬間、層がはらりとほどけたら成功だ。
よくある失敗と直し方
- 生地がすぐ破れる:休ませ不足がほとんど。30分追加で置くと見違えるほど伸びる。生地が硬いなら水を大さじ1ずつ足して捏ね直す。
- 層にならず詰まる:ギーの塗り残しが原因。隅まで「多すぎるか」と思う量を塗る。折るたびに強く押さえて層を潰すのも禁物。
- 固くて重い:低温で長く焼くと水分が抜けて乾く。高温短時間で、層の中に蒸気を残す。
- 油っぽい:焼き上がりを網の上で数分休ませ、余分なギーを落としてから切り分ける。
粉と水と脂、それに手間
何十層の正体は、結局それだけだ。特別な道具はいらない。休日の午後、生地を延ばして畳んで、焼きたてに蜂蜜を一筋。客をもてなすためのパンは、自分の台所を少しだけハレの日にしてくれる。
