南仏プロヴァンスのパン屋の棚に、麦の穂のかたちをしたパンが立てかけてあります。平たい生地に大胆な切り込みが走り、穴のふちまでこんがり焼けて、割るとオリーブオイルとハーブの香り。これがフーガス——プロヴァンスを代表する平焼きパンで、フォカッチャの親戚にあたります。
じつはこのパン、家庭のオーブンととても相性がいい。薄くて火の通りが早く、成形も「切って、開く」だけ。この記事では、ローマ時代までさかのぼるルーツと「窯の温度計」だったという言い伝え、そして葉脈の切り込みの入れ方から家庭での焼き方までを、参考記事を読み解きながら紹介します。
ルーツはローマの「炉床のパン」
フーガスの名前をたどると、古代ローマの「パニス・フォカキウス(panis focacius)」に行き着くとされています。ラテン語のフォクス(focus)は炉床、つまり火を焚く場所のこと。炉の灰の中で焼いた平パンが、その正体だったといわれます。
この炉床のパンが地中海のまわりへ広がって、イタリアではフォカッチャに、スペインではオガサに、そしてプロヴァンスではフーガスになった——そんな系譜が語られています。もちろん二千年も昔の話、細部は諸説あります。ただ、フォカッチャとフーガスを並べてみると、オリーブオイルをまとった平たい生地という体つきは確かによく似ている。同じ火のそばで生まれた兄弟だと言われれば、うなずきたくなります。
「フーガスを焦がすな」— 窯の温度計だったパン
フーガスには、こんな言い伝えがあります。薪窯の時代、パン職人は朝いちばんにこの薄いパンを焼いた。火の通りが早いから、焼き上がるまでの時間で窯の温度がわかる。本命の大きなパンを入れていいかどうかを、フーガスが教えてくれたというのです。
ここからプロヴァンスには「フーガスを焦がすな」という言い回しが生まれたと伝えられています。意味は「最初でしくじるな」。朝のパン屋の緊張感が、そのまま格言になったようで、なんだか微笑ましい話です。
温度計代わりだった名残なのか、いまでもフーガスは高温で短時間、が基本。ここが家庭のオーブンでうまくいく理由でもあります。
生地を仕込む — オリーブオイルとハーブを練り込んで
生地そのものは、ごく素直なパン生地です。参考記事のレシピを見比べると、だいたいこんな輪郭になります。
- 強力粉:250〜300g(形をくっきり保ちたいので、薄力粉より強力粉が向きます)
- 水:170〜200ml。「ややべたつくが、扱える」くらいのやわらかさが目安
- ドライイースト:小さじ1弱
- 塩:小さじ1
- オリーブオイル:大さじ2を生地に。仕上げ用に少々
- 好みで:刻んだ黒オリーブ、ローズマリーやタイム(エルブ・ド・プロヴァンス)
粉に水とイーストを合わせ、塩とオイルを加えて10分ほどしっかりこねます。オリーブを混ぜるならこね上がりに。あとはボウルにかぶせ物をして、倍ほどにふくらむまで発酵させます。台所にローズマリーの香りが漂いはじめたら、いい合図です。
葉脈を刻む — 切り込みは「思ったより広く」
ここがフーガスのいちばん楽しいところ。発酵した生地をオーブンシートの上で平たい葉っぱ形(三角形に近い楕円)にのばしたら、包丁かピザカッターで切り込みを入れます。
- 中央に縦1本。ただし上下の端は2〜3cm残して、切り離さない
- その両脇に、斜めの切り込みを3〜4本ずつ。葉脈のイメージで、ふちまでは切らない
- 切り込みは生地を完全に貫通させる。台に刃が当たる深さまで
- 最後に指を入れて、穴を2〜3cm幅までぐいっと開く
コツはひとつだけ、「思ったより広く」開くこと。生地は焼くまでのあいだにもふくらんで、控えめな穴はふさがってしまいます。参考記事も口をそろえて「大胆に」と言っています。切り込みがパンの表情を決めるという点では、クープの考え方(以前の記事で紹介しました)と同じ。ただしフーガスの切り込みは飾りではなく、穴のふち全部がカリカリの「耳」になる、おいしさの仕掛けです。
焼く — 高温・短時間、オイルをひとはけ
形ができたら20〜30分ほど休ませ、そのあいだにオーブンを230〜250°C(家庭用ならほぼ最高温度)でしっかり予熱します。天板ごと予熱しておくと、窯の石床に近づきます。
焼く直前、表面にオリーブオイルをはけで塗り、あればハーブと粗塩をぱらり。焼き時間は大きさ次第で、小さめなら10分前後、大きな一枚なら15〜20分。穴のふちまで深いきつね色になったら焼き上がりです。オーブンの中で麦の穂がみるみる色づいていくのは、何度見ても飽きません。
焼きたてを手で割ると、ぱりっと乾いた音のあとに、オイルとハーブの湯気がふわり。外はクラッカーのように香ばしく、太い部分はもっちり。一枚のパンの中にカリカリとむっちりが同居しているのが、この形の恩恵です。
よくある失敗と、その直し方
- 焼いたら穴がふさがっていた → 切り込みが浅いか、開きが遠慮がち。刃は台まで貫通させ、「広すぎるかな」まで開いてちょうどいい
- 生地がだれて葉の形にならない → 粉のコシ不足かも。強力粉を使い、こねを10分しっかり
- パサついて固い → こねる途中で粉を足しすぎた合図。べたつきは打ち粉でなく、手にオイルを塗ってかわして
- 焼き色が薄く、カリッとしない → 予熱不足がいちばんの原因。設定温度に達してからさらに数分待つくらいの気持ちで
薄いパンなので、失敗しても被害は小さめ。二枚目はきっと、もっといい葉っぱになります。
食卓では、手でちぎって
本場では、フーガスはアペロ(食前の一杯)のおともです。焼きたてを皿にどんと置いて、みんなで手でちぎる。タペナードやチーズ、ロゼワインを添えれば、それだけで小さなプロヴァンスです。
土地ごとの顔もあって、オリーブのほかにアンチョビと玉ねぎ、チーズとベーコンを合わせた惣菜版も定番。さらに南仏には、オレンジフラワーウォーターで香りをつけた甘い「フガセット」があり、クリスマスの「13のデザート」に並ぶそうです。こちらはナイフを入れず手で割るのが習わしだとか。
まずは週末、オリーブとローズマリーの一枚から。切り込みを開くとき、指先はもう職人の気分です。窯の温度を計った小さなパンが、あなたの台所では夕方の主役になります。
