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キプロスのアルカテナ(Arkatena)— ひよこ豆の泡で膨らませる、真夜中のパン

2026年09月06日 読了時間 約9分
キプロス・アルカテナ(ひよこ豆の発酵種で膨らませるパン)

密閉した瓶のなかで、砕いたひよこ豆が静かに泡を吹いています。真っ白で、きめの細かい泡。キプロスのアルカテナは、この泡だけでふくらませるパンです。イーストも、サワー種も使いません。地中海に浮かぶ島の、ぶどう畑に囲まれた山あいの村で、百五十年ほど受け継がれてきました。

この記事では、「アルカティス」と呼ばれるこの不思議な種の正体と、村に残っていた真夜中の作法、そして日本の台所で試すときの手順とつまずきどころまでを、資料を読み解きながら紹介します。

ひよこ豆の泡が、パンを持ち上げる

作り方は、粉に触れるずっと前から始まります。

砕いたひよこ豆を熱湯に沈め、しょうが、シナモン、ローリエ、クローブといった香辛料を落とし、瓶にきっちり蓋をする。それを温かい場所に置いておくと、六時間ほどで表面に白い泡が浮いてきます。これがアルカティス。すくって別の器に取り、水と粉を合わせて、ようやくパン種になります。キプロス国内委員会の記録では、この泡を三度すくって仕込むとされています。

ここが、サワー種といちばん違うところです。サワー種は冷蔵庫で飼い慣らし、何年でも受け継げます。アルカティスは違う。その日のうちに粉と合わせなければ、力を失います。前の晩に仕込んだら、翌日はもうパンを焼く日。逃げ道のない種なのです。

生地に入れる香りも独特です。マスティハ(乳香)、マフレピ(マフレブ=さくらんぼの種の核)、ナツメグ、ローズウォーター。焼いているあいだ台所に立ちこめるのは、パンの匂いというより、杏仁に似た甘い香りだといいます。

  アルカティス(ひよこ豆の泡) 一般的なサワー種
起こす材料 砕いたひよこ豆・熱湯・香辛料 粉と水
できるまで およそ6時間(温かい場所で) 数日〜1週間
保存 できない。当日中に使い切る 継ぎ足して何年も使える
香りづけ しょうが・シナモン・ローリエ・クローブ なし(種そのものの酸味)
資料に記された特徴を並べたもの。分量は家庭向けの目安ではありません。

真夜中に、臼を逆回しで

このパンが作られてきたのは、リマソル県の山あいにあるオモドス(Omodos)とキラニ/コイラニ(Kilani / Koilani)という村です。

伝来には諸説あります。一八六〇年ごろ、スミルナ(いまのイズミル)から嫁いできた女性が伝えたという言い伝えと、一八八〇年ごろオモドスで作られ始めたという記録。どちらが正しいのかは、いまとなっては言い切れません。

はっきりしているのは、作り方が長いあいだ秘密にされてきたことです。種を仕込むのは真夜中。手挽き臼は、いつもと逆向きに回す。教えてしまうと種の力が落ちる——そう信じられていました。おまじないと笑うのは簡単ですが、温度も時計もない台所で、うまくいった晩の手順をそっくりそのまま繰り返す以外に、再現する方法はなかったのだとも思います。

そして種は、村を回っていました。ひとさじの種と引き換えに、粉をひと皿。焼けたパンは、結婚式で花嫁の支度のときに配られ、子が生まれた母親どうしで贈り合われ、葬儀では故人を偲ぶ品として、教会の祝いでは施しとして手渡されました。人生の節目のたびに、このパンが人の手から手へ渡っていったわけです。

その価値は、いまも認められています。二〇一五年、アルカテナのラスクはキプロスの無形文化遺産の国内目録に、伝統工芸の分野で登録されました。Slow Foodの「味の箱船(Ark of Taste)」にも収載されています。

家で試す:ひよこ豆の泡を起こす

道具はいりません。必要なのは、蓋のできる瓶と、温かい場所です。

  • ひよこ豆を砕く:乾燥ひよこ豆100gを、フードプロセッサーで粗挽きに。ひよこ豆粉(ベサン粉)でも構いません。
  • 熱湯を注ぐ:400mlの熱湯を注ぎ、しょうがの薄切り2枚、ローリエ1枚、クローブ2粒を落とします。
  • 温かく保つ:蓋をして、35℃前後の場所へ。オーブンの発酵機能、パン発酵器、湯たんぽを添えた発泡スチロール箱でも。炊飯器の保温は熱すぎます。
  • 泡をすくう:6〜8時間で、表面に白い泡が浮きます。これがアルカティス。器にすくい取ります。
  • 粉と合わせる:泡と同量の水、それに泡が隠れるくらいの強力粉を混ぜ、同じ温度でさらに2〜3時間。ふつふつと動き出せば成功です。

蓋を開けたときの匂いは、正直に言えば香ばしくはありません。豆くさく、少し青い。それでいい、と資料は言っています。

生地をこねて、指の形に焼く

種が動き出したら、その日のうちに焼きます。

  • 粉と塩:強力粉400g、薄力粉100g、塩8g。
  • 水分:起こした種を全量。ぬるま湯を足して、粉に対して65%くらいの水分に。
  • 香り:ナツメグひとつまみ、マフレピ(マフレブ)小さじ1/2。手に入らなければアーモンドエッセンスを数滴で近い方向に寄せられます。ローズウォーターがあれば大さじ1。
  • 発酵:なめらかになるまでこね、温かい場所で2〜3倍に。種の力しだいで4〜8時間、ときにひと晩。時間で決めず、フィンガーテストで見極めてください。
  • 成形:太い指のような棒状にします。現地ではこの形を「ダクティリア(指)」と呼びます。輪の形にしてもいい。上面に斜めの切り込みを入れます。
  • 焼成:200℃で25〜30分。

切り込みの縁がめくれ上がり、そこだけ濃いきつね色に焦げてくれば、焼き上がりです。

よくある失敗と、その直し方

  • 泡が立たない:たいてい温度です。低すぎても高すぎても出ません。35℃前後を守ってみてください。豆が古いときも出にくいようです。
  • 泡は出たのに、生地がふくらまない:いちばん多いのがこれ。英語圏のあるホームベーカーは三日かけて種を起こしましたが、膨らませる力にならず、最後にドライイースト2gを足して救っています。恥ではありません。ふくらむ気配がなければ、インスタントドライイースト1gを足してしまいましょう。香りは残ります。
  • 匂いが気になる:豆くささや、わずかな酸っぱさは想定の範囲です。焼けばほとんど飛びます。ただしカビや、明らかな腐敗の匂いがしたら中止してください。
  • 石のように硬く焼き上がった:泡を起こすあいだの撹拌が足りないと「石のようになって膨らまない」と現地では伝えられています。途中で何度か、そっとかき混ぜてみてください。

二度焼きにすると、保存パンになる

アルカテナには、もうひとつの姿があります。一度焼いたパンを、丸一日かけて焼き切ってしまう。水分が抜け、カラカラに硬い「ラスク」になります。これが本来の姿で、長く保存できるからこそ、贈り物として配ることができました。

家庭でやるなら、焼き上げたパンを厚めに切り、120℃のオーブンで1〜2時間。中まで乾けば完成です。硬いので、スープやコーヒーに浸してどうぞ。硬くなったパンの引き受け方は残ったパンの活用術にもまとめています。

種を渡す人がいて、粉を返す人がいた。ひとさじの泡が村を回っていた頃の話です。今夜、あなたの台所の瓶のなかでも、同じ泡が静かに立ちはじめているかもしれません。

参考にした情報源

  • Slow Food Foundation「Traditional Arkatena Bread(Ark of Taste)」 https://www.fondazioneslowfood.com/en/ark-of-taste-slow-food/traditional-arkatena-bread/
  • Cyprus National Commission for UNESCO「”Arkatena” artisanal rusks」 https://www.unesco.org.cy/Programmes-Arkatena_artisanal_rusks,EN-PROGRAMMES-04-02-03-10,EN
  • Cyprus Food Museum「Arkatena bread and rusks」 https://www.cyprusfoodmuseum.com/en/sylloges/trofima/arkatena-bread-and-rusks
  • Heartland of Legends「Arkatena – An artisanal bread」 https://heartlandoflegends.com/arkatena-an-artisanal-bread/
  • blog from OUR kitchen「Arkatena Bread… Almost(BBB January 2020)」 https://etherwork.net/blog/bbb-january-2020/
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