イスタンブールの朝は、ゴマの香りで始まります。赤い屋台にうずたかく積まれた、ゴマをびっしりまとったリング状のパン「シミット(simit)」。トルコの人々が通勤途中に片手でかじり、チャイ(紅茶)と合わせる国民的朝食です。実はこのパン、文献で確認できるだけで約500年の歴史を持つ「路上の老舗」。今回は、オスマン帝国の記録に残るシミットの来歴と、家庭のオーブンで再現するためのコツを取材しました。
記録は1525年から——法廷文書に残された「規格」
シミットの歴史は文書でたどることができます。古文書の研究によれば、イスタンブールでは1525年からシミットが生産されていたことが確認されており、さらに1593年にはユスキュダルの法廷記録で、シミットの重さと価格がはじめて標準化されたとされています(Wikipedia英語版による)。パンの大きさと値段が公的に管理されていた——それだけ庶民の生活に欠かせない存在だったということでしょう。
17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビは、1630年代のイスタンブールに70軒のシミット焼き窯があったと記録しています。19世紀初頭には画家ジャン・ブランデジがシミット売りの姿を絵に残しており、頭の上に山積みのトレーを載せて売り歩く「シミットチ(simitçi)」は、この街の風景の一部であり続けてきました。今も屋台からは「ターゼ・シミット!(焼きたてだよ!)」の声が響きます。
名前の語源はアラビア語の「サミード」(白パン・上質な粉の意)とされ、その広がりはトルコにとどまりません。イズミルでは「ゲヴレッキ」、ギリシャでは「クルーリ」、バルカン半島では「ジェヴレク」——エーゲ海から地中海世界一帯に、よく似たゴマのリングパンが息づいています。
おいしさの秘密は「ペクメズ」——焼く前にくぐらせる甘い液
シミットの生地そのものは、小麦粉・水・イースト・塩・少しの砂糖というシンプルな配合です。ではあの深い焼き色と香ばしさはどこから来るのか。鍵は、成形した生地を焼く前にくぐらせる「ペクメズ(ぶどう果汁を煮詰めたトルコの伝統甘味料)」を水で薄めた液。ここに浸してからゴマを全面にまぶして焼くことで、糖分がカラメル化し、つややかな褐色の皮とゴマの香ばしさが生まれます。
成形にも特徴があります。生地を長いひも状(約60cm)に伸ばし、半分に折って2本をねじり合わせ、両端をつないでリングにする——この「ねじり」が、シミット特有の表情と、ちぎって食べやすい繊維感を作ります。焼成は220〜230℃の高温で12〜15分が目安。本場では薪窯で一気に焼き上げます。
食べ方の王道は朝食。白チーズ(フェタに近い塩味のチーズ)、オリーブ、トマト、キュウリと並べ、チャイを何杯もおかわりしながらゆっくり楽しむのがトルコ流です。
日本の家庭での活かし方
シミットは実は、家庭再現の難易度が低いパンです。強力粉300g・水190ml・ドライイースト小さじ1・塩小さじ1・砂糖小さじ1をこねて一次発酵45分。4分割し、それぞれ60cmのひもに伸ばしてねじりリングにします。
問題はペクメズ。日本ではなかなか手に入りませんが、編集部のおすすめ代替は「黒蜜大さじ2+水大さじ2」。ぶどう由来のコクには及ばないものの、カラメル化のメカニズムは同じで、しっかり褐色に焼き上がります。はちみつでも代用可能ですが、焦げやすいので焼き色を見ながら温度を10℃下げるのが安全です。ゴマは白炒りごまをたっぷり、フライパンで軽く乾煎りし直してから使うと香りが立ちます。和風アレンジなら白ごまに黒ごまを2割混ぜると、見た目も香りも「和シミット」に。朝は海苔チーズや浅漬けキュウリと合わせると、トルコの朝食の構図がそのまま和朝食に翻訳できます。
発酵の基本はドライイーストで十分。買い置きには定番のサフが安心です。
60cmのひも成形は台の上が粉だらけになりがち。目盛り付きクッキングマットなら長さも測れて一石二鳥です。
高温短時間焼成では庫内の乾燥対策に霧吹きをひと吹き。皮がパリッと仕上がります。
まとめ
シミットは、1525年の生産記録から数えて約500年、イスタンブールの路上で売られ続けてきた「歩く朝食」でした。法廷文書に規格が残るほど暮らしに密着し、エーゲ海の対岸まで親戚を広げたゴマのリングパン。ペクメズの代わりに黒蜜を使えば、日本の台所でもあの香ばしさにかなり近づけます。週末の朝、チャイならぬ熱い緑茶と「和シミット」——編集部として、かなり本気でおすすめします。
