スーパーの棚で「ピタパン」を手に取ったことのある方は多いはずです。半分に割ると中が空洞になっていて、そこに具材を詰められる、あの不思議なパン。でも「なぜあの空洞ができるの?」と聞かれると、案外答えに詰まってしまうのではないでしょうか。家庭でピタを焼いてみたものの、ぺったんこのまま固まってしまった――そんな経験をお持ちの方もいるかもしれません。
今日ご紹介するのは、エジプトで毎日の食卓に欠かせない全粒系のフラットブレッド「アエーシ・バラディ(aish baladi)」です。実はこのパン、ただのピタではありません。名前の由来から、あのポケットがふくらむ科学、そして家庭のオーブンで再現するコツまで、知れば次にピタを焼くのが楽しみになる話が詰まっています。最後には、嬉兆編集部が家庭向けに組み立てた焼き方もご紹介します。
「アエーシ」はパンであり、命でもある
アエーシ・バラディの「バラディ(baladi)」は「土地の・伝統的な」という意味で、いわば「うちの土地のパン」というニュアンスです。そして注目したいのが前半の「アエーシ(aish/eish)」。英語版Wikipediaによれば、この語はセム語の「生きる・存在する」を意味する語根に由来し、アラビア語では「命・暮らし・生計」といった意味合いを帯びるとされます。つまりエジプトでは、パンと「生きること」が同じ言葉でつながっているのです。
この感覚は誇張ではありません。パンは富める者にも貧しい者にも欠かせない主食であり、その価格は社会の安定に直結してきました。歴史的にも、パンの価格をめぐる動きが大きな社会的うねりにつながった例が知られています(英語版Wikipedia)。一枚のパンが「命」と呼ばれる背景には、こうした重みがあります。
5000年の系譜と全粒の香り
アエーシ・バラディのルーツは古代エジプトまでさかのぼります。古代の人々はエンマー小麦(現代小麦の祖先のひとつ)や大麦を石臼で挽き、野生の酵母の力で生地をふくらませてパンを焼いていたとされます(英語版Wikipedia/arabamerica.com)。寺院の彫刻や墓の壁画にもパン作りの様子が描かれており、その歴史の長さがうかがえます。
現代のアエーシ・バラディは全粒小麦粉を主体に作られ、表面に小麦ふすま(ブラン)をまぶすのが特徴とされています(arabamerica.com)。全粒粉ならではの香ばしさと、ふすまの素朴な風味が身上です。なお、家庭での扱いやすさという点では、全粒粉100%にこだわらず一部を強力粉に置き換える作り方も広く紹介されています(英語版Wikipediaは「最大20%程度の全粒粉なら仕上がりに大きく影響しない」とも記述)。香りを取るか、ふくらみやすさを取るか――ここは好みで調整できる部分です。
ポケットがふくらむ仕組み
さて、本題のポケットです。あの空洞は、生地の中で起きる「水の早変わり」によって生まれます。英語版WikipediaやSaveurの解説によれば、薄くのばした生地を非常に高温の窯床(やオーブンの天板)に触れさせると、生地の中心部の水分が一気に蒸気へと変わります。その蒸気の圧力が内側から生地を押し広げ、上下二枚の層を引き離してひとつの大きなポケットを作る――これが基本のメカニズムです。
鍵は「外側の皮が固まる前に、内部が蒸気になること」。表面が先に乾いて固まってしまうと、ふくらむ前に生地が動けなくなり、ぺったんこのまま焼き上がってしまいます。そのため、室温の生地をできるだけ素早く強烈な高温にさらすことが重要だとされます。複数のレシピでは、おおむね245〜260℃(約475〜500°F)の高温で2〜3分という、短時間・高温の焼成が目安として紹介されています。家庭のオーブンが苦手とする「立ち上がりの速さ」を、どう補うかが勝負どころです。
焼き上がった直後のひと手間も大切とされます。焼けたパンを重ねて清潔な布巾で覆っておくと、内側の蒸気がパンをしっとり保ち、乾いて固くなるのを防いでくれます。
日本の家庭での活かし方
家庭のオーブンは業務用窯ほど一気に高温へ届きません。そこで嬉兆編集部は「天板をオーブンごと先に焼き込んでおき、その上に生地をのせて熱の立ち上がりを補う」方針で、家庭向けのアエーシ・バラディ風ピタを組み立てました。鉄板やピザストーンがあれば理想ですが、なければ普通の天板でも構いません。温度計で生地と湯の温度を測ると、発酵もふくらみも安定します。
材料(4枚分)
- 全粒粉(または全粒粉:強力粉=1:1) … 200g
- 強力粉(打ち粉・調整用) … 適量
- ぬるま湯(約35℃) … 130〜140ml
- ドライイースト … 3g
- 塩 … 3g
- 砂糖 … 3g
- オリーブ油 … 小さじ1
- 仕上げ用の小麦ふすま(あれば) … 適量
作り方
- ぬるま湯にイーストと砂糖を溶かし、5分ほど置いて軽く泡立たせる。水温は調理用温度計で35℃前後に合わせると失敗しにくい。
- ボウルに全粒粉と塩を入れ、1とオリーブ油を加えて混ぜ、ひとまとまりにする。台に出して10分ほどよくこねる。全粒粉は水を吸うので、固ければ水を小さじ単位で足す。
- 丸めてボウルに戻し、ラップをして暖かい場所で約1時間、倍ほどにふくらむまで一次発酵。
- 4等分して丸め直し、15分休ませる。打ち粉をして麺棒で直径15cmほど・厚さ3〜4mmの均一な円形にのばす。表面にふすまを薄くまぶす。
- 天板を入れたままオーブンを最高温度(250℃前後が目安)で十分に予熱する。庫内温度計があれば、表示が温度に追いつくまで待つのがコツ。
- 熱した天板に生地をのせ、2〜3分焼く。途中で扉を開けず、内部の蒸気でポケットがふくらむのを待つ。
- 焼けたらすぐ重ねて布巾で覆い、粗熱を取りながらしっとりさせる。割って具を詰めても、ディップに添えても。
ポイントは「予熱を妥協しないこと」と「生地を薄く均一にのばすこと」。厚みにムラがあると蒸気が一点に集まらず、きれいなポケットになりません。1枚目で様子を見て、温度や焼き時間を微調整してください。
まとめ
アエーシ・バラディは、エジプトで「命」とも呼ばれる全粒系のフラットブレッドです。その語源はセム語の「生きる」に由来するとされ、5000年の歴史と全粒粉・ふすまの香ばしさを今に伝えます。あの特徴的なポケットは、高温で生地内部の水分が一気に蒸気化し、上下の層を押し離すことで生まれます。家庭では天板をしっかり予熱し、生地を薄く均一にのばすことが再現の近道です。温度計を片手に、ぜひ「ふくらむ瞬間」を楽しんでみてください。
