英語圏で「デニッシュ(Danish)」と呼ばれるあの折り込みペストリーを、本場デンマークでは「ヴィエナーブロー(wienerbrød)」と呼びます。直訳すれば「ウィーンのパン」。デンマークの名物なのに、なぜオーストリアの都市の名がつくのでしょうか。今回はその不思議な名前の由来と、家庭で折り込み生地に挑むときのコツを整理します。
ストライキが連れてきたウィーンの技
ヴィエナーブローのデンマークでの普及には、ひとつの労働争議がよく引き合いに出されます。1850年ごろ、デンマークのパン職人たちのストライキで人手が足りなくなり、店主たちはオーストリア(ウィーン)から熟練の職人を呼び寄せたとされます。彼らが持ち込んだのが、生地でバターを包んで何度も折り込む「ラミネーション(折り込み)」の技法でした。
この目新しいウィーン直伝のパンを、デンマークの人々は「ウィーンのパン=wienerbrød」と呼ぶようになります。争議が落ち着くころには、この軽くて層になったペストリーはすっかり人気を得ていました。
デンマーク流に「育てられた」レシピ
興味深いのは、デンマークの職人たちが借りもののレシピをそのまま使い続けなかった点です。争議の後、彼らはウィーン由来の生地を自分たちの好みに寄せて作り直していきました。具体的には卵とバターの量を増やし、より豊かでリッチな味わいへと調整したと伝えられます。
こうしてオーストリア生まれの技法はデンマークの土地で別物に育ち、私たちが今「デニッシュ」と呼ぶ姿になりました。ちなみにオーストリアやバイエルンでは、同じ系統のペストリーを逆に「コペンハーゲナー(Kopenhagener Plunder=コペンハーゲンのパン)」と呼ぶことがあり、互いに相手の地名で呼び合っているのが面白いところです。
なぜ英語では「Danish」なのか
世界の多くでこのペストリーが「Danish(デニッシュ)」と短く呼ばれるのは、デンマーク移民が各地に持ち込んだ歴史と無関係ではありません。とりわけアメリカへ渡った際に広まり、現地ではフルーツやクリームチーズをのせた形で定着しました。
つまり、デンマークの外から見れば「デンマークから来たパン」だから Danish。一方、デンマークの中から見れば「ウィーンから来た技」だから wienerbrød。立つ位置によって呼び名が入れ替わる、二重の名前を持つパンなのです。
層が生まれる仕組み──折り込みの基本
ヴィエナーブローの軽さの正体は、生地とバターが交互に重なった「層」にあります。酵母(イースト)入りの生地でバターのシートを包み、薄くのばして三つ折りにし、冷やす。これを数回くり返すと、薄い生地とバターの膜が何十層にも積み重なります。焼くとバターの水分が蒸気になって層を押し上げ、あのサクサクした浮きが生まれます。
折り込み系の浮きの原理は、クロワッサンやその派生菓子とも共通しています。世界での層菓子の広がりに興味があれば、NYで話題になったシュプリーム・クロワッサンや、パリで生まれたクルッキーの回もあわせてどうぞ。
日本の家庭で焼くときのコツ
家庭で折り込みに挑むとき、いちばんの分かれ目はバターの温度です。冷たすぎると割れ、温かすぎると生地に溶け込んで層が消えてしまいます。目安は「曲げても割れず、押すと跡が残るくらいの冷たさ」。日本の台所は夏場かなり暑くなるので、作業台を保冷剤で軽く冷やしておく、めん棒や生地も都度冷蔵庫に戻す、といった一手間が効きます。
折りと折りの間に冷やす時間も省けません。一般的な手順では、三つ折りのたびに30分前後しっかり冷やし、生地のグルテンを休ませます。のばしている途中で生地が縮んで戻ろうとしたら、それはグルテンが張っているサイン。無理に押さず、少し休ませてから再開すると素直にのびます。
名前を知って味わう、層のいろいろ
ヴィエナーブローは一種類のお菓子の名前ではなく、折り込み生地で作る多彩なペストリーの総称です。代表格の「スパンダウアー(spandauer)」は中央にカスタードやジャム、マジパン入りのフィリングをのせた形。バターと砂糖を等量で練った「レモンス(remonce)」という濃厚な詰め物は多くの種類で活躍し、焼くと内側で甘く溶けます。
ほかにもケシの実をのせた「テビアケス(tebirkes)」、渦巻き状のシナモンロール「カネルスネイル(kanelsnegl、シナモンの“かたつむり”の意)」など、形と名前のバリエーションは豊か。北欧のスパイス菓子という文脈ではカルダモンのちぎりパンとも世界がつながっています。次にデニッシュを手に取るとき、「これは本当はウィーンのパン」と思い出すと、ひと口の景色が少し変わるはずです。
