朝のベーカリーのトレーに、ころんと並ぶ菫色のパン。表面には細かいパン粉の衣、ふたつに割れば、鮮やかな紫のクラムから溶けたチーズがとろりと糸を引きます。フィリピンの国民的朝食パン「パンデサル」に紫ヤムイモのウベを練り込み、チーズを包んだ進化系——ウベ・チーズ・パンデサルです。
2019年に郊外の小さな店から生まれ、2020年のロックダウンでSNSを駆けめぐったこのパン。この記事では、その顛末と、あの紫の正体、そして日本の紫芋パウダーで焼くためのレシピと発色のコツを、参考記事を読み解きながら紹介します。
「塩のパン」なのに、甘い
パンデサル(pandesal)は、スペイン語で「塩のパン(pan de sal)」。ところが実際に食べると、塩気よりほんのり甘い。名前と中身が食い違っているのが、まずおもしろいところです。
祖先はスペイン統治時代の「パン・デ・スエロ(窯床のパン)」という硬めのパンでした。フィリピンでは小麦が採れないため、20世紀初頭のアメリカ統治期に安価なアメリカ産小麦が入ってくると、パン屋たちはこぞって安い粉に切り替え、結果としてあのふんわりやわらかい食感が生まれたといいます。倹約から生まれた、けがの功名のようなパンなのです。
もうひとつの目印が、焼く前に表面へまぶす細かいパン粉。これがパンデサルをパンデサルたらしめる衣で、焼きたてを朝、コーヒーやチョコレートドリンクに浸して食べるのが定番のスタイルです。
一日五千個 — カヴィテの小さな店から
この毎朝の顔に「紫」が差したのは、意外と最近のこと。GMAニュースが2019年10月に報じたのは、マニラ近郊カヴィテ州シランの「Kimmy Bakes」というベイクショップでした。開店からわずか3か月の小さな店が、ウベ生地にチーズを忍ばせたパンデサルを売り出したところ、よその州からわざわざ買いに来る客が続出。一日五千個を売り上げ、15個入り175ペソの袋が飛ぶように売れたと伝えられています。
二〇二〇年、巣ごもりの街で
そこへ訪れたのが、2020年のロックダウンでした。VICEの取材によれば、パンパンガ州アンヘレス市では、ロックダウンで職を失った三人のきょうだいが自宅で「The Beikeri」という小さなベーカリーを立ち上げ、ウベとチーズのパンデサルを看板にFacebookとInstagramだけで販売、たちまち評判を呼びました。外食が止まった街のあちこちで、サワードウやスシベイク(寿司グラタン)と並ぶ巣ごもりトレンドとして、この紫のパンは家庭のオーブンからSNSへ広がっていったのです。会えない時期に、画面越しの鮮やかな紫と「チーズがのびる断面」が、人々をつないだのでした。
あの紫の正体 — ウベは、さつまいもではない
ウベの正体は、ヤムイモの一種ディオスコレア・アラタ(Dioscorea alata)。日本の「やまいも」の親戚で、さつまいもではありません。断面は鮮やかな菫色から明るいラベンダー色まで。この色は着色料ではなく、水に溶ける天然色素アントシアニンによるものです。紫の濃い品種ほど色素が多く、練り込んだ料理を丸ごと鮮やかに染め上げます。
味はほんのり甘く、土の香りとナッツのような風味。紫芋よりも水分が多くしっとりしていて、沖縄の紅芋ともタロイモとも別物です。似た顔の芋たちがそれぞれ違う個性を持っている、というのがまた楽しい。
作り方 — 紫の生地でチーズを包み、パン粉の衣を着せる
参考記事のレシピを日本の計量に直すと、こんな流れになります。ボウルと家庭用オーブンがあれば十分です。
- 材料(14個分の目安):強力粉450g、砂糖大さじ6、塩小さじ1、ドライイースト約7g、ぬるま湯60ml、ぬるい牛乳60ml、卵2個、やわらかいバター大さじ3、蒸してつぶした紫芋120g。チーズは溶けるタイプ約220gを14切れに。
- イーストを起こす:40℃くらいのぬるま湯に溶かし、5分ほどで泡立てば準備OK。熱すぎるお湯はイーストを殺します。「気持ちいいお風呂」の温度で。
- こねる:材料を合わせて8〜10分。この生地は手に少しまとわりつくくらいが正解。打ち粉を足す代わりに、手へ薄く油を塗って。
- 一次発酵:1時間半〜2時間、倍にふくらむまで。
- 包む:14等分して平たくのばし、中央にチーズをのせて包み、とじ目をつまんで下にして丸めます。チーズは角切りより平たい正方形に切ると、どこをかじってもチーズに当たります。
- 衣と二次発酵:表面にパン粉をまぶして天板に並べ、30分〜1時間、ふっくらするまで。
- 焼く:175℃で20分前後、うっすら色づくまで。
オーブンの中で紫の生地がゆっくりふくらんでいく眺めは、ちょっとした魔法です。焼きたてを割れば、湯気と一緒にチーズがのびて、甘い生地と塩気が口の中でひとつになります。
紫芋パウダーでの代替と、発色のコツ
生のウベは日本ではまず手に入りませんが、あきらめる必要はありません。現地のレシピでも、乾燥ウベを粉にしたウベパウダーを水で戻して使うのは定番の手。日本なら製菓材料の紫芋パウダーが、いちばん身近な相棒になります。植物としては別物でも、紫の源は同じアントシアニン。生地に練り込めば、あの菫色にぐっと近づきます。
発色のコツは、現地の作り手たちが口を揃えるところです。
- 芋のペーストを入れすぎない:色を濃くしたいからとマッシュやウベジャムを増やすと、生地が重くなってふわふわが失われます。パウダーなら少量で色が出て、食感への影響もひかえめ。
- もう一押しは「足す」で解決:現地ではウベエキス(ウベフレーバー)を少量加えて色と香りを底上げします。輸入食材の通販で見つかりますし、なければ紫芋パウダーを心もち増やして。
- 焼きすぎない:焼き色がつくほど表面の紫はくすみます。うっすら色づいたら、そこが引き際。
よくある失敗と、その直し方
- 固く、ずっしり焼き上がる → 粉の足しすぎ、こね不足、焼きすぎが三大原因。生地はべたつくくらいが正解と心得て、打ち粉の誘惑に負けないで。
- ふくらまない → イーストが古いか、お湯が熱すぎたサイン。予備発酵で泡が立つか、まず確かめましょう。
- チーズが漏れて焦げる → とじ目が甘い合図。包んだらしっかりつまんで、必ず下にして置きます。
- 紫が思ったより出ない → ペーストを増やすより、パウダーやエキスで色を足すのが近道。生地の軽さはそのまま、色だけ濃くできます。
週末の朝を、紫に染める
郊外の小さな店から生まれ、ロックダウンの街で人々を励ました紫のパンは、いまやフィリピンの味の顔になりました。むずかしい技術はひとつもいりません。紫芋パウダーをひと袋買ってきて、週末の朝、生地をこねてみてください。焼きたてを割った瞬間、のびるチーズの向こうに、マニラの朝の空気が少しだけ流れ込んでくるはずです。
