日暮れ前のサラエボ。パン屋の前に長い列ができて、通りにはこうばしい小麦の匂いが漂いはじめます。列の先で焼かれているのが、ソムン——高温の窯の中でぷくりと風船のように膨らみ、中に空洞(ポケット)を抱いた、ボスニア・ヘルツェゴビナの平パンです。割れば湯気、そこへ炭火の匂いをまとった小さな肉団子チェバプチチ(チェバピ)を詰め込むのが、この国のごちそうの定番。
うれしいことに、このパンの決め手は「特別な材料」ではなく「高温」。つまり、家庭のオーブンを最高温まで振り切れば、台所でもかなり近いところまでいけます。この記事では、名前にまつわる伝説、よく似たリェピニャやピタとの関係、ラマダンの夜の香り、そして家のオーブンでの焼き方までを、参考記事を読み解きながら紹介します。
名前の由来は「ソムンさん」?
サラエボの人々が語り継ぐ起源の物語は、オスマン帝国の時代にさかのぼります。ボスニアの総督ガジ・フスレヴ=ベグが、軍の補給係に「おいしくて、作るのが簡単で、すぐに冷めるパンを考えよ」と命じた。そして見事に応えたその補給係の姓が、ソムン。パンには彼の名がついた——サラエボのメディアが伝える、そんな伝説があります。
もちろん、これはあくまで言い伝えで、いつ生まれたのか確かな記録はありません。トルコ語にも似た名のパンがあり、起源には諸説あります。ただ、「早く冷めること」が注文に入っているのがいかにも軍隊らしくて、妙に信じたくなる話ではあります。
リェピニャ、ピタと、どこが違う?
バルカン半島には、そっくりな顔をした平パンの親戚がいます。セルビアなどで「リェピニャ」と呼ばれるパンとソムンは、しばしば同じものとして語られますが、ボスニアでは別物として扱う人も多い。ソムンのほうが口の中でほどけるようにやわらかく、香りも豊かだと言われます。
中東のピタとの違いは、断面にあります。ピタが全体ほぼ均一の薄い生地なのに対し、ソムンは外側の皮と内側のふわふわが、はっきり別の食感。焼くと内部で生地が上下二枚に分かれてポケットができるのは同じですが、ソムンはもっと「パンらしい」厚みと弾力を持っています。だからチェバプチチの肉汁を受け止めても、へたらないのです。
ラマダンの夕方、チュレコットの香り
サラエボでは、ソムンはラマダン(断食月)と切っても切れない存在です。日没の断食明けの食事「イフタール」の食卓に欠かせず、夕方になるとビェラヴェやヴラトニクといった古い地区のパン屋の前に行列ができ、焼きたての香りが街に流れて、売り切れごめんになる——現地メディアがそんな光景を伝えています。
そしてラマダンの間だけ、ソムンの表面には黒い小さな種がぱらぱらと振られます。現地で「チュレコット(čurekot)」と呼ばれるこの種は、ニゲラ(ブラッククミン、ニオイクロタネソウの種)のこと。預言者ムハンマドが「死以外のあらゆる病の薬になる」と語ったと伝えられる「祝福の種」で、だからこそ聖なる月のパンに惜しみなく振られるのだそうです。普段のソムンと、ラマダンのソムン。同じパンが、種ひと振りで特別な意味をまといます。
家庭オーブン最高温での作り方
本場では薪窯の高温で一気に膨らませますが、家庭では「オーブンを限界まで熱くする」ことでそれに近づけます。参考にした現地系レシピをもとに、日本の台所向けに半量へ直しました。
- 材料(4〜5枚分):準強力粉または中力粉500g(強力粉250g+薄力粉250gでも可)、塩小さじ2、ドライイースト7g、牛乳150ml、水150ml、ギリシャヨーグルト大さじ5
- こねる:全部を合わせてこねます。かなりべたつく生地ですが、粉を足さないこと。このべたつき(高めの水分)が、ふわふわとポケットの素です。
- 一次発酵:暖かい場所で1時間半〜2時間、倍になるまで。前の晩に仕込んで冷蔵庫でひと晩、でもOK。
- 分割・成形:4〜5等分して丸め、麺棒は使わず、指の腹で押して指の厚さくらいの円盤に。生地の中の空気をつぶさないためです。
- 仕上げ:ナイフの背で表面に格子模様をつけ、霧吹きで水をかけます。あればニゲラシード(またはごま)をぱらり。
- 焼く:オーブンは天板ごと最高温(250℃以上あれば理想)に予熱。7〜10分、風船のように膨らんで、うっすら金色になるまで。
オーブンの窓の前でしゃがんで待つのが、このパンのいちばん楽しい時間です。平たかった生地がある瞬間ふうっと持ち上がり、まるで息を吸うように膨らむ。あれを一度見ると、焼くたびに覗きたくなります。
よくある失敗と、その直し方
- 膨らまず、ただの平焼きになる → いちばん多い原因は温度不足。予熱は「もういいかな」からさらに10分。天板もカンカンに熱しておくと、生地が着地した瞬間に蒸気が立ってポケットが開きます。
- 麺棒でのばしてしまった → 空気が抜けてポケットができにくくなります。次は手で。多少いびつでも、そのでこぼこがソムンらしさです。
- 固く焼き上がる → 焼きすぎのサイン。高温では1分の差が大きいので、金色になったらすぐ出す。焼きたてを布巾にくるんでおくと、皮がしっとり落ち着きます。
- 格子模様が消える → 模様が浅いと膨らむ力に負けて消えます。切り込むのではなく、ナイフの背でぐっと深めに押しつけるのがコツ。
割って、詰めて、頬ばる
焼きたてのソムンを横から裂くと、ふわっと湯気が上がって、中に温かい空洞が待っています。本場ならここへチェバプチチと刻み玉ねぎをどっさり。日本の台所なら、小ぶりの棒状ハンバーグやつくねを香ばしく焼いて詰めれば、気分はもうサラエボの食堂です。カレーやケバブ風の具でも、朝ならバターと蜂蜜だけでも。
日暮れの行列には並べなくても、オーブンの前で膨らむのを待つあの数分は、どの台所にもやってきます。週末、オーブンの温度つまみを右いっぱいに回すところから、はじめてみませんか。
参考にした情報源
- Do You Know the Origins of Sarajevo’s Famous Somun? | Sarajevo Times
- The Story of Sarajevo Flatbreads: Little Secrets of great Masters | Sarajevo Times
- How To Make Somun: The Best Bread For Ćevapi | Chasing the Donkey
- Somun {Bosnian Flatbread} | The Wordy Baker
- Lepinja – Traditional Recipe from the Balkans | 196 flavors
