地中海のまんなか、マルタ島。海辺の売店で紙包みを受け取ると、ずっしり重い。開けば、真ん中に穴のあいた円盤形のパンに、ツナとトマトとオリーブオイル。かじると厚い皮がバリッと鳴って、油のしみた中身がふわりとほどけます。
フティーラは、マルタ共和国で毎日焼かれてきたサワードウの平パンです。リング形(穴あき円盤形)で、皮は厚く香ばしく、中は大きな気泡だらけ。2020年12月、「イル・フティーラ——マルタにおける平たいサワードウパンの調理技術と文化」として、マルタ初のユネスコ無形文化遺産に登録されました。この記事では、名前のルーツから、ゴゾ島の薪窯ベーカリー、国民的サンド「ホブズ・ビッツェイト」、そして日本の台所で焼くための現実的なレシピまでを、参考記事を読み解きながら紹介します。
ユネスコが登録したのは「レシピ」ではない
登録名をよく見ると、対象はパンそのものではなく「調理技術と文化」。フティーラを作り、分け合う暮らしごと認められた、ということです。公式の説明書きによれば、その姿はこうです。
- 形:ほかのマルタパンより平たい、穴あきの円盤
- 皮:厚くて香ばしい(高めの温度で焼くため)
- 中身:大きく不規則な気泡が入った、軽い食感
- 食べ方:水平に割って、オリーブオイル、トマト、ツナ、ケッパー、オリーブなど地中海の恵みを挟む
機械化が進んだ今も、フティーラの成形だけは職人の手仕事です。この技を受け継ぐ職人はマルタに約200人と登録書類には記されています。味わいをチャバタとサワードウパンの中間と例えるシェフもいれば、あのバリッとした皮こそ長く愛されてきた理由だと語る職人もいます。
名前のルーツには、諸説あります
「フティーラ」の由来は、ひとつに絞れません。ユネスコはアラビア語の「ファティール(無発酵のパン)」に由来すると説明し、現地の食文化メディアは「平たくする」という意味の動詞から来たとして、1766年の辞書にすでに載っていたことを伝えています。歴史も同じで、聖ヨハネ騎士団が統治した16世紀の記録まで遡る研究者もいれば、1740年代からの約280年と紹介する記事もある。要するに、パンが文書より先に暮らしの中にあった、ということなのでしょう。
面白いのは、初期の記録でこのパンが「スキアッチャータ」というイタリア系の名で呼ばれていたこと。トスカーナの平パンの親戚です。イタリアのフォカッチャを訪ねた回でも書きましたが、地中海の平パンは、海を渡ってどこかでつながっています。
ゴゾ島・ナドゥール村の薪窯
マルタ本島の隣にあるゴゾ島は、フティーラのもうひとつの聖地です。ナドゥール村では、創業1899年のメクレンズ・ベーカリーと、1930年代から続くマショック・ベーカリーという二軒の老舗が、今も薪窯を焚いています。どちらも持ち帰り専門。焼き上がりを受け取って、めいめい好きな場所で頬張るスタイルです。
ここで注意をひとつ。同じ名前でも、フティーラには二つの顔があります。
- フティーラ・ロール:穴あきリング形のパン。割ってサンドにする、この記事の主役
- フティーラ・アウジーヤ(ゴゾ風):ピザのように開いた生地に薄切りジャガイモやツナ、ヤギ乳の小さなチーズをのせて焼く、食事そのものの一枚
かつて村の共同窯はアザミや小枝を燃やして230〜260度まで熱せられ、丸型のマルタパンが焼けるのに1時間かかるところ、平たいフティーラは20〜30分で窯から出てきたといいます。ただし伝統は安泰ではありません。「パンの町」コルミでは職人ベーカリーが20年で50軒以上から15軒に減ったと、ユネスコ登録を主導した歴史家が危機感を語っています。
ホブズ・ビッツェイト——「油のパン」というごちそう
フティーラの一番おいしい食べ方を尋ねたら、マルタの人はまずこれを挙げるはず。ホブズ・ビッツェイト、直訳すれば「油のパン」です。
- パンを水平に割り、切り口にクンセルヴァ(甘みのある濃縮トマトペースト)を厚めに塗る
- オリーブオイルをためらわず、まわしかける
- ツナ、ケッパー、オリーブ、薄切りタマネギを重ねる(バタービーンズやパセリが入る家も)
- 塩と黒コショウをひとふりして、ぎゅっと挟む
冷蔵庫のツナ缶とトマトペーストでできるのに、揃った瞬間、急に地中海になる。「マルタ人は少しのものでうまくやってきた」と登録を主導した歴史家も語るとおり、あり合わせを最高にする知恵こそ、このパンの核です。
家庭で焼く——前夜の小さな種から
本場は名前の通りサワードウです。もしサワードウスターターを育てているなら、それで仕込むのが一番の近道。なければ、英国の製粉所シップトン・ミルが公開する方式が現実的です。前の晩にイーストの小さな種(彼らはこれを「ティンシラ」と呼びます)を作り、風味を発酵の深みに寄せるやり方です。
前夜(5分)
- 強力粉50g+ぬるま湯50ml+ドライイースト3gを混ぜ、覆いをして室温にひと晩
当日
- 前夜の種+強力粉500g+ぬるま湯320ml+ドライイースト7g+塩8gを混ぜる(生地はやわらかめでOK)
- こね込むより「のばして折りたたむ」を30分〜1時間おきに3回ほど。気泡を育てるイメージで
- 2つに分けて丸め、手で平たい円盤にのばす。中央に指を突き入れ、両手で回して穴を広げる
- 20分休ませ、その間にオーブンを230度へしっかり予熱(下段の天板に熱湯を注いで蒸気を)
- 25〜35分、こんがり色づくまで。薄めのリングなら早く焼けるので、焼き色を目安に
サワードウらしい酸味の輪郭がほしければ、仕込み水の一部をプレーンヨーグルト大さじ1〜2に置き換えるのが手軽な工夫。本場そのままではありませんが、日本の台所の現実解です。
よくある失敗と、その直し方
- 穴が焼くと閉じてしまう → 成形時の穴が小さすぎます。生地はふくらんで内へ育つもの。「開けすぎかな」でちょうどいい
- 中身が詰まって重い → 水が足りないか、折りたたみで気泡を潰しすぎ。やわらかい生地と、やさしい手を
- 皮がバリッとしない → 予熱と蒸気の不足。オーブンは長めに予熱し、生地を入れる直前に熱湯を注ぐ
- 味が単調で物足りない → 前夜の種の時間を延ばすか、ヨーグルト置き換えを。それでも余ったら翌日ホブズ・ビッツェイトに。オイルとトマトが全部ととのえてくれます
島の穴あきパンを、台所へ
「フティーラは私たちの生き方そのもの」——マルタでフティーラ作りの教室を開くカール・マッリアさんは、SBSの取材にそう答えています。ユネスコに登録されたのがレシピではなく文化だった理由は、この一言に尽きるのかもしれません。休みの日、穴あきの円盤が焼けたら、ツナとオリーブを挟んで外へ。ベランダの椅子でも近所の公園でも、厚い皮がバリッと鳴った瞬間、そこは少しだけ地中海です。
参考情報源
- UNESCO Intangible Cultural Heritage(Il-Ftira 公式ページ) https://ich.unesco.org/en/RL/il-ftira-culinary-art-and-culture-of-flattened-sourdough-bread-in-malta-01580
- SBS Food(Give us ftira, Malta’s daily bread) https://www.sbs.com.au/food/article/ftira-is-the-280-year-old-bread-of-the-maltese-people/pm3ytiem9
- Food and Wine Gazette(The Maltese ftira and the UNESCO Intangible Cultural Heritage list) https://www.foodandwinegazette.com/16134
- The Offbeat Appetite(The Past, Present and Future of Maltese Bread) https://offbeatappetite.com/stories/the-past-present-and-future-of-maltese-bread
- Shipton Mill(Ftira (Maltese bread) recipe) https://www.shipton-mill.com/blogs/journal/ftira-maltese-bread
