紙袋ごしに手のひらが熱い。角を割ると湯気が抜けて、羊の脂と玉ねぎの匂いが立ちのぼる——リトアニア、トラカイの湖畔で売られているのがキビナイ(kibinai)です。バターをたっぷり抱き込んだ生地で刻んだ羊肉と玉ねぎを包み、丸い縁をねじって閉じ、オーブンで焼いた三日月形のパン。この記事では、このパンを600年ちかく守ってきた人たちの話と、日本の台所で焼くための段取り・失敗の直し方までを紹介します。
キビナイとは — 三日月の縁に、ひだが並ぶ
生地を丸くのばし、片側に具をのせ、もう半分をかぶせる。そこまではどこの国の包みパンとも変わりません。キビナイが独特なのは、そのあとです。重なった縁をつまんでは指でひねり、つまんではひねりして、縄のようなひだを端から端まで並べていく。焼き上がると、このひだが三日月の背にくっきり浮き上がります。長さは15センチほど、片手で持てる大きさです。
名前の形が少し複雑で、リトアニア語では1個が kibinas、複数が kibinai。もともとの担い手であるカライムの言葉では kybynlar と呼びます。英語の旅行ガイドはよく、イギリスのコーニッシュ・パスティにたとえます。肉と玉ねぎを生地で包んで持ち歩く、という一点では確かに親戚のような食べものです。
クリミアから来た人たちが、600年運んできた
キビナイはリトアニア生まれではありません。カライム(カライ派)というテュルク系の少数民族が、黒海のクリミア半島から持ってきたものです。
言い伝えでは、14世紀の終わり、リトアニア大公ヴィータウタスがクリミアからカライムの家族をトラカイへ連れてきたとされます。ただしこれは諸説あって、歴史学者はリトアニアのカライム語がクリミアのそれとかなり違う点を挙げ、移住はもっと後だったのではないかと指摘しています。確かなのは、彼らがヴィリニュスやトラカイのほか、ビルジャイ、パスヴァリース、ナウヤミエスティス、ウピーテにも住みついたこと。そしてトラカイには、いまも彼らの祈りの家であるケネサが建っていることです。
人の数のほうは、静かに減り続けています。リトアニアの国勢調査でカライムと答えた人は、2011年に423人、2021年には192人。10年で半分以下になりました。人口192人の民族の台所から出たパンが、国じゅうのパン屋とカフェに並んでいる——キビナイはそういう立ち位置の食べものです。近い親戚がウクライナにもあり、メリトポリのカライムが焼く et ayaklak という肉のパイは、2018年にウクライナの無形文化遺産の国内目録に登録されました。
| 項目 | 目安(12個ぶん) |
|---|---|
| 生地 | 粉500g/冷たいバター250g/卵2個+卵黄1個/冷水150ml/塩小さじ1/白ワインビネガー大さじ1 |
| 具 | 羊肩肉400g(豚肩200gを足す流儀も)/玉ねぎ大1個/塩小さじ1.5/こしょう小さじ1/マジョラム小さじ1/冷水50ml |
| 1個あたりの具 | 約50g |
| 焼き上がりの長さ | 約15cm |
| 縁のひだ | 15〜20本 |
| 焼成 | 200℃(ファン180℃)で35〜40分 |
味の芯は、肉を「挽かない」こと
ここが一番大事なところです。伝統のキビナイは、肉をミンチにしません。リトアニア語で kapota aviena、つまり「刻んだ羊肉」。包丁で細かく刻むだけなので、粒が残ります。焼いているあいだに脂が溶け、刻み目のすきまに肉汁がたまり、割ったときに「ひき肉の塊」ではなく「肉のかたまりの集まり」の顔をしている。フードプロセッサーで回してしまうと、この手ざわりが消えます。
玉ねぎは逆に、できるだけ細かく。生のまま肉と混ぜて包み、生地の中で蒸し焼きにします。中身に火を通してから包むのではなく、生の具を包んでじっくり焼く——だから焼成が35〜40分と長いわけです。
トラカイの老舗は「冷凍はしない。作って、すぐ焼く」という流儀を看板に掲げています。この地の古いキビナイ店は、リトアニアの国の伝統遺産製品の証明書(Tautinio paveldo produkto sertifikatas)と料理遺産基金のマークを受けており、レシピの出どころを証明として示す文化が根づいています。いまは豚・鶏・チーズ・きのこ・ほうれん草の具も普通に売られていますが、最初にあったのは羊だけでした。
作り方
- 生地:粉と塩をボウルに入れ、冷たいバターを切り込むように混ぜる。バターの粒を潰しきらないのがコツ。卵・冷水・ビネガーを合わせて加え、まとまったらこね回さずにひとまとめにし、冷蔵庫で30分休ませる。
- 具:羊肩肉を包丁で細かく刻む。玉ねぎはみじん切り。塩・こしょう・マジョラム・冷水50mlを加えて混ぜる。しっとりしていて、かつ水が浮いていない状態が目標。
- 包む:生地を12等分し、直径15cmほどの円にのばす。片側に具を約50gのせ、もう半分をかぶせる。
- ひだ:重なった縁を親指と人差し指でつまみ、内側へひねって倒す。これを端から繰り返して15〜20本。ねじった分だけ縁が厚くなり、汁が抜けにくくなる。
- 焼く:天板に並べ、表面に溶き卵を薄く塗って200℃(ファン180℃)で35〜40分。全体がしっかり色づくまで。
よくある失敗と、その直し方
- 底が濡れて生っぽい:具の水分が多すぎるサイン。加える冷水は50mlまでにして、玉ねぎを刻んだあと出てきた水は軽く切ってから混ぜる。
- 焼いている途中でひだがほどける:生地がぬるんでいます。包む前にもう一度冷蔵庫へ。ひだは「つまむ」より「ひねって倒す」意識にすると外れにくい。
- 生地が固く、割れる:こねすぎです。バターの粒が見えているうちに手を止めるのが正解。グルテンを出す相手ではありません。
- 中まで火が通らない:生の肉を包むので、焼き時間は短縮できません。表面が早く色づくならアルミ箔をかぶせ、時間のほうを守ります。
日本の台所で焼くなら
羊肩肉がまとめて手に入らないときは、ラム肩ロースの薄切りを重ねて包丁で刻めば十分に近い手ざわりになります。羊の香りが強すぎると感じたら、豚肩を混ぜる流儀のほうへ寄せればいい。マジョラムはオレガノで代用できます。
そして、ぜひ真似してほしいのが食べ方です。現地では熱いキビナイに、澄んだ鶏か牛のスープを小さな器で添えます。ひと口かじって、スープをひとすすり。これを交互に繰り返す。バターの生地と羊の脂を、熱い汁が毎回洗い流してくれるので、大きいのに重くならない。日本の台所なら、鶏がらの澄ましや薄めのコンソメで同じことができます。
バルト三国のパンをもう一段たどるなら、隣国ラトビアの黒ライ麦パンルプマイゼが対照的で面白い。縁を縄のようにねじって閉じる手つきそのものに興味が湧いたら、クロアチアのソパルニクも同じ仕草で閉じています。
192人の民族の台所から出て、いまも湖のほとりで湯気を立てている。キビナイのひだは、そのまま年輪のようなものかもしれません。
参考にした情報源
- Wikipedia「Kibinai」 — https://en.wikipedia.org/wiki/Kibinai
- Wikipedia「Lithuanian Karaites」(国勢調査の人口・定住地) — https://en.wikipedia.org/wiki/Lithuanian_Karaites
- Lithuania Links「Kibinai: The Karaim Pastries of Trakai」(分量・成形・焼成・スープの作法) — https://lithuanialinks.com/en/cuisine/kibinai/
- Kibinai Trakuose「Kibinai – tautinis paveldas」(刻む/冷凍しないの流儀、伝統遺産製品の証明) — https://kibinaitrakuose.lt/kibinai-tautinis-paveldas/
